2005年05月12日

60年代、人種の壁と音楽

jimi-otis.jpg

昔書いた文章です。
私のBlogが、何故 Jimi Hendrix/ Prince/ P-Funk/ Stevie Wonder なのか、という理由として読んでいただけると嬉しいです。



 1967年の夏、サンフランシスコ郊外のモントレーで開催されたポップ・フェスティバルに、一人の黒人シンガーが登場した。当時のサンフランシスコは、Love&Peaceのフラワー・チルドレン(要するにヒッピー)一色、フェスティバルは、ポップというよりロック・フェスティバルといった方がいい。その時代のアメリカは、人種差別に反抗する黒人のテンションが一触即発状態、一方で、ベトナム戦争が泥沼化の様相を呈していた。

 シンガーの名は、オーティス・レディング、バックを勤めるのが Booker T. & The MG's 。
 聴衆のほとんどが彼のことを全く知らず、彼がステージに登場した時点では、白けた雰囲気が漂っていたのだそうだ。しかし、彼がステージを終える頃になると、会場は異様なほどの熱狂的な喝采に包まれていたという。主として白人のヒッピーで占められていたであろう聴衆に、ソウル・ミュージックが炸裂した瞬間だった。このステージは『伝説』として語り継がれている。彼のメッセージは、シンプルにしてパワフル、一言でいえば「愛し合ってるかい?」というものだった。
 そして、同じフェスティバルに出演していたのが、イギリスからアメリカへ凱旋帰国したジミ・ヘンドリクス。こちらのステージは、狂気(凶気)と怒りで充満した凄まじいもので、こちらも『伝説』になっている。皆さんよくご存知だろう。

 このフェスティバルの翌年、オーティスは飛行機事故で逝ってしまう。

 そして、キング牧師が暗殺される。

 ジミ・ヘンドリクスはキング牧師暗殺の直後にライブを行っている。このときのジミの立場はきわめて微妙なものだった。白人聴衆を相手にする黒人のロックスター……。ジミのローディー達は、「何が起きても不思議はない」そのときの状況に怯えていたのだという(遠くから銃声が聞こえるたびに震え上がる……)。それでもジミは、キング牧師の死を悼む即興曲を演奏し、聴衆は皆――白人も黒人も――涙したということだ。

 69年、ウッドストック・フェスティバルのひとつのハイライトはスライだった。彼は、FUNK のパワーで白人のヒッピー達を扇動し、数十万人を手のひらの上で操るかのようだった。ファミリー・ストーンは黒/白混成のバンドだったが、そのサウンドはブラック・パワーを全身で体現していた。
 そして、言うまでもないもう一つのハイライト、ジミ・ヘンドリクスは「アメリカ国歌」の伝説的な演奏を行う。フェスティバルの大トリ、月曜日の早朝で疲れ果てた群集。それでも、この演奏が始まると同時に、聴衆の間にはいわく言いがたい「どよめき」が起こったのだという。
 彼は、あの時、どの様な気持ちでアメリカ国歌を演奏したのだろう。ここでもフェスティバルの聴衆はほとんどが若い白人で黒人は少なかった……。
 「Star-Spangled Banner 〜 星条旗よ永遠なれ」 は、何故か、喘ぐような悲しみに満ちている。モントレーでの狂気(凶気)とは対照的に、ウッドストックのステージの上のジミの表情はとても穏やかで、そして、ギターの音色は悲しいほど美しかった……。

 60年代のアメリカで、黒人音楽と白人音楽の間にはベルリンの壁より高い壁が聳え立っており、それは人種の壁をまさに端的にあらわすものであった。その壁を徐々にではあるが押し開いたのが、カウンターカルチャーとしてのロックだった。そのうねる様な大きな波はは70年代へと着実に受け継がれ、そして70年代において大きく花を開くことになる。同時にロックはビジネスの中へと解消してカウンターカルチャーとしての役割を終えるのだ。

オーティス・レディングがいた。
ジミ・ヘンドリクスがいた。
スライ・ストーンがいた。
そして、彼らの遺したものは、スティービー・ワンダーへ、プリンスへ、P-ファンクへと着実に引き継がれていったのだ。
posted by BustaCat at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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